外にある内に出会う

少し前のことだが、“家庭科の調理実習がその後役に立ったか?”と尋ねるツイートが流れて来たことがあった。

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記憶を想起して、直接的にスキルとして役には立っていないけれども、自分の思考や行動の癖を知るということや、自分の限界とその外を認識するという点で、インパクトのある体験をしたことを思い出した。

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小学校何年生のことであったか定かでないが、調理実習で味噌汁を作ることになった。
食材は各班のメンバーで分担して準備するということだった。どのように決めたのかは忘れたが、私は薬味のネギを用意することになった。

我が家では薬味のネギと言えば万能ネギが当たり前だった。しかし、家庭科の教科書の記述と写真を見ると、そこに載っているのは白ネギ(長ネギ)。“万能ネギを使うのは、ローカルな文化で恥ずかしいこと”。そう思い込んだ私は、万能ネギで大丈夫だという母に教科書を見せて熱弁して説き伏せ、お金をもらってスーパーで白ネギを買い、次の日に持って行った。

するとーー私の班以外はみな万能ネギを持って来ていた!

白ネギを持って来たことで、特に何か言われたわけではなかったと記憶しているのだけど、とにかく「みんな万能ネギ!」という衝撃は、今でもありありと思い出せる。

家庭の文化と地域の文化。その境目がよく分かっていなかった。何につけても自分の家は洗練されていないという強い信念があって、ウチの文化がソトへ露わになることへの極端な恐れがあった。

いろんな地域に住んで食文化が様々に存在することを知り、また逆に万能ネギが全国で流通して当たり前に使われるようになった今なら、「福岡だから味噌汁には万能ネギ」と言うことはできる。
だけど、では今日、「みんなで食材持ち寄りで料理をしよう、あなた薬味のネギ担当ね」と言われたとしたら私は何を持っていくのだろう。 

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万能ネギ体験と紐付いて思い出されるのは、ある年の運動会のこと。お弁当の重箱に、半分に割られた茹で栗が入っていて、それをスプーンでほじくって食べるシーン。栗をスプーンで食べるということが奇習に思えて、どうにも恥ずかしかった。家族は普通に食べていて、食べないのもまた家族への説明が面倒。人に見られないよう、足の間に顔を埋めてこそこそと食べた。
こそこそし過ぎて、友だちに呼ばれているのに全く気づかず無視する形になってしまい、結局母と父から怒られた。

栗を茹でてスプーンで食べるという方法。
ネットができた今、検索すると、茹で栗スプーンは割とメジャーのよう。当時ネット検索があれば、堂々とできたかなあ。

これらは、自分とその外側との関係について未だに見誤り悩みまくっている私の、基準を自分の内に持てない私の、ある意味原点とも言える体験だったように思う。
それは裏返して言うと、この世に身を委ねるということと、重心は常に自分の内側にあるということとの、次元が異なる両方の世界へ身を置かざるを得ない我々が、必然的に出会う裂け目に出くわした瞬間でもあったのだと思う。
自分の内にある外側を恐れて、自分の外にある内側に直面した体験であった。

調理実習については、粉吹きいもが一個余ってみんなで困ったので、正義心から「じゃあ私が」と言ったら、横にいた子がそっと「私食べてない」と手を上げて、私がとっても笑われた記憶。
あれはどういう“笑われ”だったのだろう。今だに時々思い出す。

それから、キュウリだけのサンドイッチが教科書に載っていて、作って食べて「なんやこれ」と思ったこと。素。
教科書だから質素で、小学生だから手順が簡単な省略バージョンを作るんだなあと勝手に推察していたが、
後年、イギリスのアフタヌーンティーには付き物なんだと聞いた。イギリスの気候と産業革命の歴史と関連して、キュウリは高級品(だった)らしい。
こういう出会いもある。

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食は文化だから、いろんな人とそれを見せ合うことは、やはり本質的に自分の“ウチ”を見せること。
“家庭”科の調理実習とは、自分という存在が、家庭・地域・国やそれ以外にまたがって構成されていることを知らされる体験だった。
それは今、私の職業選択や興味関心のあり方にも反映されていて、自分は結局、そこを考え続けているのだなあと思う。

灰色の青空

初めて近鉄南大阪線に乗る。
松原、羽曳野などを通り抜ける線。
私はこの河内と呼ばれる地域の、地面の勾配の加減と色彩が本当に好き。
水上勉が描いた世界を思わせる、寂寥と覚悟を感じるのだ。
山形の鶴岡、庄内映画村の辺りにも少し似ている。

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葛城市の相撲館けはや座ヘ。
ころころした坊主頭の子どもが土俵の周りではしゃいでいて、みんなの娯楽として、身近な非日常として、相撲が息づいているのだと感じる。
子どもがそこにいると、まさに根っこから文化が育っているのだと実感されて良い。

河内家菊水丸大相撲トーク&河内音頭
貴乃花の政界進出は100%ありません!」とキャッチーな話題も折り込みつつ、相撲甚句と共通する音頭を一節、二節。
相撲にも河内音頭にも知識の乏しい私にとっては、ああそんなところとも繋がっていましたか、とまた宿題をもらった気分。取り組むのが楽しい宿題はいいなあ。
様々な音楽が流れ込み、河内で合流して、それぞれの音頭取りがそこに柱を立てる。その周りで人々が踊る。なんてかっこいい風景だろう。音頭取りが立ったところが柱、みたいなモバイル性も含めて恰好よい。

それから、今回は屋内だったので、これまでに何度か聞いた河内音頭の音のバランスと違って聞こえた。具体的には、一つひとつの楽器の音が立って聞こえた。
我が家で「CSI:マイアミ問題」と呼ばれるものがあって、それを思い出した。
アメリカのドラマである『CSI:マイアミ』のテーマ曲。最初にキーボード/シンセサイザーの旋律がなって、そこにドラムが入る。それからギターが“ザカザーン”と割って入ってくるのだが、何度聞いてもこの“ザカザーン”のタイミングが取れないのだ。
河内音頭も、太鼓がドーンとなってリズムを打ち始めたところに、ギターが“サーン”と一音入って始まるのだけれど、その“サーン”を入れるタイミングの難しさ、その勇気。そこに深く感じるものがありました。

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ちゃんことこんにゃくをいただき、初っ切りを見て当麻寺ヘ。
当麻寺曼荼羅。乏しい曼荼羅体験ではありますが、初めて曼荼羅にインドを見た。天竺とかガンダーラとかではなく、観光ガイドブックの写真で見るタージマハルみたいな、現代の我々にとってリアルなインド。ボリウッド的表現。そこから映画『華麗なるギャツビー』のパーティーシーンとも重なって、人間が描く“極楽”の、縦断的横断的普遍性を感じる。

うーん、やはり文化はどうやって残り、合流したのか、関心はそこへ立ち返る。
この地で化合されたもの。それが私の心の中で、さらに血脈として連なり風景が広がるのを感じる。河内の風景ヘ。

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帰りに上本町近鉄に寄って、地下のはり重のイートインヘ。ビーフワンを初めて食べる。
思ったよりも牛肉にしっかりと味がついていて、牛丼と京都の他人丼の中間といった味わい。文化のグラデーション。

ところで、けはや座では受付で軍配型色紙を急に渡されて、「何を書きましょう」。
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すっかり慌ててしまって、名を騙ってすみません。
首のところが折れやすいと聞いたので、当麻寺駅→尺土→橿原神宮前→大和八木→上本町からその先と、近鉄電車を駆使して慎重に持ち帰りました。

またどこかで

9月24日。夢を見て目覚めた。泊まっているホテルに持ち物のほとんどをおいて出てしまう夢。
自分がここに泊まっていることも、現実は容赦なく進んでいってしまうということも、自分では全く心がついていけていないからこんな夢を見たのだろうかと、まどろみながら思う。
出ていくことへの抵抗や、何も持たずいっそ出ていけと後を押すものの両方を感じる。

仕事は昨日で終わったので、今日は東京見物をして帰ろうと思った。
練馬区立美術館で芳年展を見て、西荻窪でやっている原田栄夫さんの作品展を回って、東京駅へ出て新幹線に乗ろうと計画していたのだけれど、ベッドの中でごろごろしている間に、横浜アリーナクレイジーケンバンド20周年記念公演で当日券が出ることを知った。
CKBの横浜でのライブは土曜日開催が多く、仕事と重なるためいつも諦めていた。この日は祝日だけれど、やはり仕事で見に行けないだろうと諦めて、チケットを取っていなかったのだ。
芳年はとても好きなのだけれど、今回の展覧会へは、仕事に関わるお勉強として出向こうとしていたところがあったから、”自分は逃避しようとしている”という罪悪感はあった。でも、いつも諦めていた横浜でのライブを見ておきたいという気持ちが抑えられなかった。

神保町の宿を出て、半蔵門線から田園都市線へ乗り入れ。あざみ野でブルーラインに乗り換えて、新横浜へ。
改札を出て地下通路へと降りる、わずかに触れ得た光景ではあったけれど、あざみ野駅前の姿に私の心はとても刺激された。
ファンシーな淡いピンクのタイルでできた建物。花屋さん。東急ストア。きれいな服装の親子連れ。
私が中学生の頃から大学進学まで住んでいた街も、東急不動産が開発した新興住宅地で、しかし開発が入った途端にバブル崩壊
中途半端に切り開かれた、鉄塔の麓の町は早々に大企業からは見捨てられ、あとには住宅ローンを抱えた家族たちと、家の乗っていないまだらな宅地が残された。
今はばらばらに移り住んできた住民が、自分たちの街をボトムアップで作っていて、それなりになんとかなっている。
あざみ野駅前を通り過ぎて、もう少し何かがどうにかなっていたら私もこのような街に育っていたのだろうかと、並行世界を見るような、そんな奇妙な思いにかられたのだった。

この日はとても暑かった。
記念手ぬぐいを購入したりしながら販売開始まで40分ほど待って、無事に当日券を入手。スタンド席の一番上、ステージから客席からすべてを見渡せる絶好の位置。

開演までの間に、数量限定のラーメンとありあけのハーバーを並んで買う。
ラーメンの紙袋が大きいので、そこにハーバーの包みを入れ込む。がんばってそれごと手首に下げる。
狂剣神社のお参りとスタンプ押しの行列に付く。長蛇。並んでいる間に、この半年ほど毎日着けているブレスレットがなくなっていることに気づく。そんな夢を見たなあと思いながら、泊まったホテルに電話。折り返し電話があり「お預かりしていないようで」。諦める。

開演。
号泣ポイントがあり過ぎた。
冒頭のvideotapemusicからすでに。あの頃メトロとか心斎橋クアトロとかいろいろ見に行って楽しかったな。ドメスティックなどろどろとしたものと、60年代70年代のアメリカ憧れみたいなある種スタイリッシュなものと、どちらかを選ぶ必要はなく、そのどちらも取り込んで出しちゃえばいいということを教えてもらって、ずいぶんと生きるのが楽になった、そんな18年前を思い出した。
蔵さんのあの強迫的な細かい字とか。かっこいいブーガルーのPV、赤いジャケットに白いハットの剣さんが好きで、クアトロに着いて1階のモニターにそれが流れててテンション爆上げだったあのライブとか。
そんなことが湧き上がって来た時に見る「スージーウォンの世界」のバックのVJ。

実物の剣さんの歌声やメンバーの動きにピッタリとリンクして過去の様々な映像が隙間なくスムーズに繋がれ、新たに制作されたアニメーションも挿入されて、時間も場所も超えながら、内に確かにあるポップな欲求も満たしてくれた、浮遊感とここにいる感が同時に成立するような、素晴らしいVJ。
帰宅して興奮気味に伝えると夫は「4Dってことか」と評したけれど、まさにそのような世界に安全に飛ばしてもらえた感激。

気がついたらボロボロ泣いていた。みんな変わらないけど変わった。

コハラスマートさん、野宮真貴m-flo
さらに、渚ようこさんまで出てきた日には。

でかい会場、モニターたくさん付いたステージ。これだけで外タレ感があって、やっぱり憧れのあの人たち感。CMソング(リコピンリッチはデルモンテ!)に滝沢カレンのCM映像も挟まって、昔の生放送のドラマに生CMが挟まるようなアメリカンな雰囲気も創出。

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アンコールも含めて4時間弱の大熱演。あっという間に終わってしまったけれど、気持ちはパンパン。
20年間が星座のように、様々にリンクしていく心の旅。

終わったら、開演前に買ったラーメンの紙袋に収まるありあけのハーバーの包装の上に、無くしたと思ったブレスレットがちょこんと乗っているのに気づいた。お前そんなところにいたのかい。ライブはどうだったい。

新幹線から在来線に乗り、終電で帰宅。

翌日の朝が早いので、帰ったら即寝ねばと思っていた。しかし眠気が来ない。渚ようこさんの、年月を経てますます透き通る声に、意志と念の強さを思う。
剣さんが渚さんと、むちゃくちゃはしゃいで踊っていたのもとてもとても印象的だった。

東でのライブの雰囲気と、西との違いも感じた。東京に住んでいた3年間は、多忙かつ貧乏であまり見に行けなかった。その後、ささやかに遊ぶぐらいの余裕は生まれたものの、サミットとか大きなイベントはいつも土曜日で、それだと仕事で行けないといつも歯噛みしていた。

仕事が思っていたより早く終わって、思い切って当日券を買って入った。諦めていたから、参加できて本当に嬉しかった。そんなわけで、まだまだ余韻を噛み締めています。朝イチの仕事が終わって、一気に眠気。

外と出会う

私の右眉の一部、山なりに上がっていくちょうどピークのあたりに毛がはえていないところがある。
私が高校の頃はちょうど細眉ブームで、もさい田舎の高校生であった私にも、眉毛を整えてみようという気が起こり、眉が尻上がりのアーチになるように、産毛を抜いた。ついでに、エイヤとその近くの一本の太い毛の方にも手を入れた。
眉毛はそれなりに整って、満足もそれなりにして毛抜きを置いた。

特に化粧に興味があったわけではないので、抜いて全体のフォルムを整えて、それだけ。
抜くという行為自体も、それほど長い期間は続かなかったように思う。

四十手前となった今も、やはり化粧に注ぐエネルギーを持てず、朝の化粧は五分で終わる。そのうち三分は、眉の隙間を塗り込めるのに使っている。あとは、アイラインを引いて、マスカラを塗るだけ。
今も眉毛の産毛は剃るけれど、眉の形は持って生まれたものにすっかり委ねてしまっている。

また生えてくるだろうと、自分とその生命力を、無条件に過信していたところがあった。
だから、何も考えずに、太い毛も抜いた。
産毛はまた息を吹き返して生えてきて私の手を取らせるが、肝心の、眉毛本体にはポツンと空き地が常にある。

もしもこの眉を抜かなかったら、今ごろどんなふうに生きていただろうか。
もしくは、眉の空洞などものともせず、いつも自分に似合う眉にトランスフォームさせる柔軟さと勇気と細やかさが私にあったなら。
今ごろ子どもを生んで育てていただろうか。仕事でももう少し、成果を上げられていただろうか。
現在の暮らしに不足はないけれど、時折襲いかかる死の不安。

自分の持てるものと世間との折り合い。
眉毛を細く整えるということは、世間に参与しようというあの頃の私のささやかな意思表示だったように思う。
そして私はそこから撤退した。

毛の一本が動かす運命みたいなところに、胸がぎゅっと締め付けられるところがある。
それだけでなく、自分のこの運命を、たった一本の眉毛に還元してしまいたい、そんな気持ちがどこかにある。

もしも抜いてなかったら。
考えると気が狂いそうになる。私の中の何かに反逆されそうな気がする。
だから今日も私は、パウダーでチョンチョンとそこを塗って、毛を抜いたことそこに綻びがあることをなかったことにしようとする。

今日見た

私は二歳 [DVD]

10年前にTVでやってたのを流し見て以来。
ぼんやりと、団地住まい時代の部分だけ覚えていて、
子どもの内観が子どものモノローグで語られる、という
(いかにも市川崑という)演出の斬新さがあって、
コミカルな印象を持っていたのだけれど、
もちろんそれはそうなのだけれど、
とてもそれだけでは済まない(ポイントは私がすっかり忘れ去ってた後半にあり)、
とってもいい映画だった。


親と子、妻と夫、嫁と姑、団地と庭付き一軒家、
と、いろんな対立するものがあって
(時代背景もあって、高度成長期の核家族化と世代間乖離の急速な進行とか)
子どもが生まれることによって、それらの「対立」が前面化するわけです。
その究極が生と死。


子のためにと時に突き放す理論先行とも取れる母の教育と
とにかく手を掛ける姑の教育と、
それは、子(孫)を思う愛という点では同じなのだけれど、
全然違う、対立する。
でもそれが、子が死に瀕することによって、結合する。
さらに、姑の死をもって、夫と妻、親と子、が、永遠に結合する。
それが、子どものあるモノローグによって繋ぎ止められているというその演出がにくいのです。


なんとなく業田良家自虐の詩』を思い出す。
あれは、壮絶なストーリーを踏まえた上での
「それでも生きる」という生への賛歌だったと思うけど、
平凡な(といっても船越英二山本富士子の夫婦なんだけどさ)サラリーマンであっても
子をなすことによって、
生と死との結合に出会うことができる、というそのことがコンパクトに描かれている、
そのことに驚かされました。


と、胸熱くしてネット見て
イルリメが書くやけのはらの話(HPに載っていた話)にしみじみする。
そこで挙げられてた、七尾旅人×やけのはらの曲ももちろんよかった。